彼女は、ゴルフのルールに厳しい。
厳しいというより、正確だった。
ドロップの位置。
クラブの長さ。
膝の高さ。
全部、ちゃんと知っている。
名前は、黒川 美紀。
競技ゴルフ経験者。
月例にも出る。
スコアも安定している。
だからこそ、気になる。
——それ、違う。
最初に気になったのは、服装だった。
襟のないシャツで来ていた同伴者に、
美紀は少し迷ってから言った。
「このコース、
襟付きじゃないとダメなので……
ウェアを買って
着替えた方がいいかもです」
嫌味でも、命令でもない。
クラブのルールを守りたいだけだった。
「え、そうなの?」
軽く笑われて、
それ以上は何も言えなかった。
でも、引っかかりは残る。
その後も、続いた。
同伴者がラフにボールを落としたとき。
「すみません、それ、
膝の高さからじゃないです」
一瞬、空気が止まった。
「あ、そうなの?
まあ、いいじゃん」
いいじゃん、じゃない。
美紀は、相手を責めたいわけじゃない。
同じ条件で、
ちゃんとプレーしたいだけだ。
ティーショットのときも、そうだった。
同伴者が、無意識に真後ろに立っている。
「すみません……
後ろ、ちょっとだけ
外してもらえますか」
言い方は丁寧だ。
声も低い。
でも、言われた側は
少しだけ戸惑う。
パターのときも同じ。
視界の端で、誰かが動く。
「ごめんなさい。
視界に入らない位置に
立ってもらえませんか」
正しい。
全部、正しい。
池に入ったときも、そうだ。
「その場合、元の地点か、
最後に池を横切ったところから、
2クラブレングス以内です」
「へえ〜、詳しいね」
笑いながら言われると、
なぜか自分が、
細かい人間に思えてくる。
でも、その間、
後ろの組が詰まり始めていることに、
美紀は気づいていなかった。
説明は、どうしても長くなる。
正確に伝えたい。
間違えたまま進んでほしくない。
結果として、
スロープレーになっていることを、
本人だけが知らない。
しかし、美紀は、悪気がない。
むしろ、
ゴルフをちゃんとやりたいだけだ。
でも、一緒に回る人は、
少しずつ距離を取る。
「美紀さんと回ると、
緊張するんだよね」
と言われたこともある。
(正しいのに)
(間違ってないのに)
ある日、会社のコンペ。
いつもより、
ルールを緩くするつもりだった。
でも、目に入ってしまう。
ドロップの仕方。
ペナルティの数え方。
喉まで出かかった言葉を、
飲み込んだ。
そのとき、
足元を白いボールが転がった。
「苦しそうだね」
——ゴル先生だった。
「ルールを知ってるのは、
悪いことじゃない」
少し転がって、続ける。
「でもね」
「ルールは、
守らせるためだけに
あるんじゃない」
美紀は、眉をひそめた。
「じゃあ、
何のためですか」
「迷わないため」
ゴル先生は、
静かに言った。
「どうすればいいか、
分からなくなったときの
道しるべ」
「だから、
全員が迷ってない場面で
振りかざすと、
ただの壁になる」
美紀は、黙った。
次のホール。
同伴者が、
バンカーをならさずに
出てきた。
美紀の視線が、
自然と足元に落ちる。
言うべきか。
言わないべきか。
一瞬、息を吸ってから、
美紀は言った。
「……競技だったら、
今のは、
直さないといけないですね」
それだけ。
責めない。
正さない。
情報だけを、置いた。
相手は一瞬止まり、
黙ってバンカーに戻り、
レーキを取った。
空気は、重くならなかった。
ラウンドの終わり。
「美紀さん、
教え方、前より柔らかくなりましたね」
そう言われて、
少し驚いた。
美紀は、
ルールブックを
バッグの奥にしまった。