朝8時30分。
支店の会議室で、
三浦和志は支店長席に座っていた。

一番奥、ホワイトボードが正面に見える席。

かつては、一番端のパイプ椅子から、
その板を見上げていた。

今は違う。

「では、始めようか」

その一言で、空気が変わる。
誰もがペンを取り、背筋を伸ばす。

和志は、証券会社の支店長になっていた。

昇進の知らせを受けた日、
真っ先に浮かんだのは、
達成率でも評価表でもない。

女子トイレの前で立っていた、
かつての自分だった。

あの時、自分は“数字”だった。

和志はホワイトボードの前に立つ。

達成率。
前年差。
未達。

ペンを持つ手は、もう震えない。

だが、書き方は変わった。

数字の横に、小さく丸をつける。

「今月は、ここまで来た」
「まだ、伸びる」

誰も気づかないほど小さな丸だった。

その日の午後、支店長コンペがあった。

月に一度の支店コンペ。
だが今日は、気が重い。

部下の一人が、最近数字を落としている。
どこか、かつての自分に似ていた。

ティーグラウンド。
足元には、見覚えのある白いボール。

「お久しぶりです」

にこやかな顔。ゴル先生だ。

「今日は、立つ場所が違いますね」

和志は苦笑した。

ティーショット。
和志のスイングは、
以前より落ち着いていた。
力を込めなくても、
ボールは伸びる。

「飛ばすことを覚えた人のスイングです」

ゴル先生が言う。

「いえ……」
「無理して飛ばさなくていいことを、
 覚えただけです」

フェアウェイを歩きながら、
和志はふと思い出した。

女子トイレの前。
両手のバケツ。
1時間。

「もし、あの時……」
「誰かが一言、
 違う声をかけてくれていたら」

ゴル先生は、静かに転がった。

「だから、今度はあなたの番です」

林に打ち込んだ部下のショット。
無理をすれば、グリーンは狙える。

「一度、フェアウェイに戻そう」
「次で、十分届く」

部下は、うなずいた。

刻んだ一打は、
静かにフェアウェイへ戻った。

最終ホール。
和志はふと、
ホワイトボードの前に立っていた頃の自分を思い出す。

書く側の言葉は、
人を縛ることも、解放することもできる。

「支店長って、難しいですね」

和志が言うと、
ゴル先生は転がりながら答えた。

「ホワイトボードってね」
「数字を書く場所じゃないんです」
「人の“今”を、見える形にする板なんですよ」

翌朝、
和志は、ホワイトボードに数字を書いた。

だが、その横に、こう付け加えた。

「今月の一打:フェアウェイへ戻す」

もう、誰かを
女子トイレの前に立たせることはない。

支店長席から見るホワイトボードは、
以前よりも、少しだけ優しく見えた。