支店の朝は、ホワイトボードから始まる。
達成率。
未達。
前年差。
白い板に書かれた黒い数字の横に、
三浦和志の名前が並ぶ。
〇でもなく、×でもない、
“足りない”という沈黙。
証券会社の営業マンとして、
和志はその数字に、毎朝立たされていた。
かつて一度、大きな失態をした。
上司に呼び出され、
女子トイレの前で、
両手に水の入ったバケツを抱え、1時間。
重かったのは腕ではない。
視線と、笑いと、
自分が小さくなっていく感覚だった。
その日から和志は、
無意識に“振り切る”ことをやめた。
ゴルフ場でも同じだった。
ティーグラウンドに立ち、
足元の白いボールを見る。
「今日も、無理せず……」
そう呟いた瞬間、
ボールがころりと向きを変えた。
和志が目を凝らすと、
そこには小さな笑顔のゴル先生がいた。
「私はね、本当はよく飛ぶボールなんです」
最初のショット。
体はまだ動く。
筋力も、技術も残っている。
それなのに、
スイングは途中で緩み、
弾道は低く、短い。
「怖いんですね」
フェアウェイで、
ゴル先生が言った。
「飛んだ先で、また何か言われるのが」
「また、数字を突きつけられるのが」
和志は、否定できなかった。
林に入った二打目。
狙えば、グリーンは見える。
「刻みます」
そう言った自分の声が、
思ったより落ち着いていることに気づく。
ゴル先生は、
枝の影で静かに言った。
「飛ばさない選択は、逃げじゃありません」
「立て直すための一打です」
短く持ったクラブ。
フェアウェイへ戻すだけ。
だが、不思議と胸は軽くなった。
ホールを重ねるごとに、
ゴル先生は和志を見守った。
「ボールも、人も同じです」
「抑え込んだ力は、消えません」
「溜まっていくだけです」
最終ホール。
和志は、ドライバーを手に取った。
ホワイトボードの数字が、頭をよぎる。
上司の声。
バケツの重み。
だが、それらを一度、
地面に置いた。
「飛んだら……」
「思いっきり、飛ばしたい」
そう思えた瞬間、
体が自然に動いた。
乾いた音。
ボールは、高く舞い上がった。
以前より、迷いがない。
恐れがない。
風をつかみ、
前よりも、遠くへ。
フェアウェイの先、
誰もが驚く位置で止まった。
「ほら」
ゴル先生が、
転がりながら笑う。
「飛ばそうとした時より」
「飛ぶことを許した時の方が、
よく飛ぶでしょう?」
ラウンド後、
和志は決めていた。
数字から逃げるわけじゃない。
だが、数字に立たされる場所からは、
離れる。
自分が飛べる場所を、選ぶ。
翌朝、
ホワイトボードを見る視線が、
少しだけ変わった。
飛ばすことを思い出した和志は、
もう、縮こまらなかった。