そのゴルフ場に来るのは、
今年で何度目だろう。
相川浩一郎は車を降り、
クラブを担いだ。

平日。
コンペも接待もない。
今日は一人だ。

「静かでいいな」

誰に言うでもなく、そう呟いた。

相川はこの会社を三十年以上率いてきた。
売上も、社員数も、順調に伸ばしてきた。
数字の責任は常に自分が背負い、
判断は早く、
言葉は強くあるべきだと思ってきた。

だが最近、会議で若い役員の顔を見るたび、
自分の言葉が、
少しだけ遅れて届く感覚があった。

意味は伝わる。
理屈も間違っていない。
ただ、以前のように即座に空気が動かない。
一拍置いて、若い役員たちの間を回り、
整理されてから、再び戻ってくる。

——悪くはない。
むしろ、健全だ。

自分がいなくても、
議論は進み、結論は出る。
そのことを寂しいとは思わなかった。

そう思えた瞬間、
「引退」という言葉が、
初めて現実の重さを持った。

——そろそろか。

スタートホール。
ティーに立つと、
足元で白いボールが転がった。

「久しぶりやな」

「……お前か」

ゴル先生だった。

「今日は一人か?」

「今日は、考え事だ」

相川はドライバーを構える。
昔ほどの飛距離はない。
だが、無理はしない。

――キン。

ボールは真っ直ぐ、フェアウェイへ。

「飛ばんようになったな」

「飛ばす必要も、減った」

ゴル先生が笑う。

「ほう。えらい落ち着きや」

セカンドショットを歩きながら、
相川は思い出していた。

三年前の年末コンペ。
社員の一人と最終組で回り、
接戦の末に負けた。

スコア86。

悔しさより、嬉しさが先に来た。
会社に、あんなゴルフをする社員がいる。

「なあ」

ゴル先生が言う。

「人はな、
 負けた相手のことは、よう覚えとる」

「……確かにな」

あのときの男は、
飛距離はあったが粗かった。
だが、今年は違った。
アプローチも、バンカーも、動じなかった。

相川は、クラブを選びながら言った。

「成長する人間は、見ていて分かる」

ショートホール。
相川のティーショットはグリーン奥へ。

「オーバーや」

「欲が出たな」

「それや」

ゴル先生が転がる。

「社長業も一緒や。
 まだ打てる、まだ握れる、
 と思い始めたら、外す」

相川は深く息を吐いた。

「引き際、か」

「引き際やない。
 渡し時や」

後半に入ると、空が少し曇ってきた。
風も出てきた。

ミスが出る。
だが、相川は苛立たない。

「昔なら、叱ってたな」

「誰を?」

「自分を、部下を、環境を」

ゴル先生が言う。

「今は?」

「……修正する」

ボールは、次のショットで寄った。

最終ホール。
グリーン手前、短いアプローチ。

相川は、
あの社員の顔を思い浮かべた。
チャンピオンマンと呼ばれて、
苦しんで、
それでも逃げなかった男。

「呼び名で人は育たん」

ゴル先生が言う。

「だが、期待は育てられる」

相川は、静かに振った。

――コトン。

ボールはカップのそばに止まった。

「決まったな」

「……ああ」

相川はクラブをバッグに戻した。

「次は、見守る側だ」

ゴル先生が、最後に言った。

「それも、立派なプレーや」

相川は空を見上げた。
雲の向こうに、うっすらと光があった。