60歳を前にして、ボールが飛ばなくなった。

いや、正確には、
「飛ばそうとするほど曲がる」
ようになった。

それはドライバーだけじゃない。
人生も、同じだった。

「力、入りすぎですね」

ティーの上に置いた白いボールが、
そう言った。

「……今、喋った?」

――佐藤誠一、59歳。
思わず、構えた姿勢のまま固まった。
もうすぐ60になる。

「喋りました。あなたが考えすぎてるから」

誠一はため息をついた。
今日は会社の同期とのゴルフだったが、
頭の中は、
1年後の自分のことでいっぱいだった。

再雇用の話が出ている。
今の会社に残れば、給料は半分。
ただし、仕事はよく知っている。
人間関係もある。
しかし、肩書きは外れ、決裁権もなくなる。
これまで自分が決めてきた仕事を、
横で支える立場だ。

一方で、別の会社からも声がかかっている。
こちらも給料は半分。
ただし、新しい環境、新しい役割。

残るか、移るか。
どちらを選んでも、
「今まで通り」ではいられない。
「半分、半分……」

「どっちを選んでも、“半分”に見えてますね」

ゴル先生は、ティーの上で微動だにしない。

誠一は構えた。
無意識に、思い切り振ろうとしている自分に気づく。

「今のあなたのスイング、
“若い頃の距離”を取り戻そうとしてます」

「……ダメか?」

「ダメじゃない。
 ただ、今の自分を見ていない」

誠一は一度、構えを解いた。

「じゃあ、どう打てばいい?」

「フェアウェイの真ん中。
そこだけ見て、6割で振る」

打った球は、低く、まっすぐだった。
飛距離は確かに落ちたが、
フェアウェイのど真ん中に止まった。

「ね。ちゃんと前に進んでます」

誠一は歩きながら、聞いた。

「……仕事も、同じか?」

「ええ。
“フルスイングできない自分”を
否定してるうちは、
どこへ行っても曲がります」

2打目。
残り150ヤード。

誠一はまた迷った。
7番で届かせるか、8番で刻むか。

「どっちが正解ですか?」

「質問が違います」

「え?」

「どっちなら、後悔しませんか」

誠一は8番を選んだ。
グリーン手前、花道。

「寄せればいい」

「ええ。今のあなたには、それで十分です」

アプローチで、また力みかけた誠一に、
ゴル先生は言った。

「でも、“寄せにいこう”としないでください」

「え?」

「乗せるだけでいい。
人生の後半戦は、
“寄せ”じゃなくて“乗せ”です」

その言葉が、胸に残った。

誠一は決めた。
今の会社を離れ、新しい場所へ行く。

給料は半分。
でも、求められている距離に、
ちゃんと届く場所へ。

前半が終わり、クラブハウスに向かうとき、
ポケットの中にあったボールが、
静かに言った。

「後半のホールでは、
“役割を手放す怖さ”について話しましょうか」

誠一は笑った。

「……まだ、9ホールもあるんだぞ」