高宮 修、52歳。
大手都市銀行、リスク管理部門の責任者。
市場、為替、信用、不正——
あらゆる「想定外」を想定し、
一度の判断ミスが、
何十億という金を動かす世界に
身を置いてきた男だ。
新人時代から、判断を誤ったことはない。
上司に叱られた記憶もない。
彼のキャリアに、
「やり直し」は存在しなかった。
——ミスは許されない。
——ミスは防ぐものだ。
それが、彼の正義だった。
会社では、部下のミスも許さなかった。
報告が一時間遅れる。
数字の根拠が一行抜ける。
「万が一」の想定が甘い。
小さな綻びが、やがて組織を壊すことを、
彼は誰よりも知っていた。
だが時代が変わった。
叱責はハラスメント。
強い言葉は問題視される。
言えない。
踏み込めない。
正しさを押し付けられない。
その代わり、
胸の奥に溜まる苛立ちだけが増えていった。
ゴルフも、同じだった。
かつては当たり前に切っていた100。
今は、何度ラウンドしても届かない。
特にドライバーが壊れた。
OBが怖くなり、ミニドライバーに替えた。
それでも信用できず、
最近はそれすらバッグから出さない。
ティーショットは、無難なユーティリティ。
——安全第一。
——確実に。
だが、スコアは良くならなかった。
ミスショットのたびに、舌打ちが漏れる。
クラブを乱暴に、芝に叩きつける。
ハーフ45を超えた日は、
クラブハウスには入らない。
一人、練習場へ向かう。
——足りない。
——まだ足りない。
打てば打つほど、球は遠ざかっていった。
この日の同伴者はメンバーの3人。
ミスしても、
「次があるよ」と笑って切り替える男たち。
その笑顔が、修には理解できなかった。
(なぜ笑える?
なぜ悔しがらない?
なぜ失敗を許せる?)
重たい空気が、彼の周りに溜まっていく。
次のロングホール。
修は、
ティーグラウンドの端で空を見ていた。
「次、高宮さんの番ですよ」
声をかけられ、はっと我に返る。
「あ……ああ、そうですか」
少し間を置いて、言った。
「オーナーになることなんて、
しばらくなかったもので……
ぼーっとしてました」
誰も笑わなかった。
そのとき、足元のボールが、
コロン、と小さく揺れた。
「やれやれだね」
誰にも聞こえない声。
——ボールが、喋った。
「そんなに緊張しなくていい」
「……なにを」
「ミスしたら終わり、って顔してる」
修は息を詰めた。
「君、銀行でどんな仕事してる?」
「……リスク管理です」
「だろうね」
ゴル先生は、芝の上で静かに続ける。
「君はずっと、
失敗を起こさない人間で
いようとしてきた」
「それが仕事です」
「うん。でもね、
失敗を起こさない人間と、
失敗を受け止められる人間は、別物だ」
胸の奥が、きしりと鳴った。
「ドライバー、使ってないね」
「OBは許されません」
「銀行ではね」
ゴル先生の声は、穏やかだった。
「でもゴルフでは、OBも含めてゴルフだ」
「それは……」
「君、叱れなくなった分、自分を叱ってる」
——なぜできない
——情けない
——また失敗だ
「それ、部下に言えなくなった言葉でしょ」
修は、何も言えなかった。
「一回だけでいい」
ゴル先生が言う。
「ミスしても、怒らないで打ってみな」
「結果は?」
「打ってみないと分からない。
でも、怖がって振らない方が、
ゴルフでは一番のミスだ」
白い表面が、静かに光った。
修は、ミニドライバーを手に取った。
久しぶりだった。
狙いは、フェアウェイの真ん中。
——外してもいい。
——それでも、打つ。
スイングは、力が抜けていた。
カン。
軽い音。
ボールは、右にも左にも逃げず、
フェアウェイを転がった。
「……ナイスショット出ましたね」
誰かが、少し驚いたように、
でもどこか嬉しそうに言った。
「今の、すごくいい振りでしたよ」
責める声ではなかった。
評価する声でもなかった。
ただ、仲間を見守る声だった。
完璧ではない。
だが、前に進んだ。
その後も、ミスは出た。
だが、舌打ちは出なかった。
クラブを叩きつけることもなかった。
スコアは、今日も100を切れなかった。
それでも、修の胸は、不思議と軽かった。
足元のボールが、
何も言わずに、そこにいた。
——ミスを許すって、
——甘くなることじゃない。
——前に進むことを、
——やめないことだ。
完璧であることより、
前に進み続けることの方が、
人生では大事なのかもしれない——
修は、初めてそう思った。