その朝、
源蔵は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
体を起こそうとして、
一瞬、腰が言うことをきかない。
「……よいしょ」
小さく息を吐く。
昔なら、
こんな動きに掛け声などいらなかった。
大西 源蔵、85歳。
エイジシュート199回。
肩は上がりきらず、背中は少し丸くなり、
ドライバーの飛距離は、確実に落ちている。
それでも、確かめるように両手を握る。
「動くな」
言い聞かせる相手は、体だった。
弱音を吐いたところで、
飛距離が戻るわけでも、
腰が軽くなるわけでもない。
それに――
ゴルフは、死ぬまでやると決めている。
だから今日も、黙って帽子を被った。
黒田和男にもらった、少し色あせた帽子だ。
クラブハウス前。
「源蔵さん、今日は記念日だな」
黒田が言う。
「数字だけだ」
源蔵は笑ったが、
その内側では、
一打一打を誤魔化せなくなった
自分を知っていた。
力で振れない。
無理をすれば、次の日が動かない。
だから今は、振らないゴルフをしている。
「刻むなよ」と言いながら、
本当は、刻むしかない場面が増えたことも。
後半。
ドライバーで少し右に逸らしたとき、
源蔵は一瞬、目を閉じた。
「昔なら真っ直ぐ行ったのに」
そんな言葉は、飲み込んだ。
昔は、もう使わない。
足元に、白い影が転がった。
「飛ばなくなりましたね」
ゴル先生だった。
「うるさい」
源蔵は小さく笑う。
「でも、ちゃんとフェアウェイだ」
「……そうだな」
「あなたは、距離を失って、選択を得た」
源蔵はクラブを見つめた。
「若い頃は、考えなくて済んだ」
「今は?」
「今は……一打一打に、理由がいる」
ゴル先生は転がりながら言った。
「それを、ゴルフと呼ぶんです」
最終ホール。
エイジシュートまで、パーで十分。
腰が、少し重い。
だが、振れないわけじゃない。
「刻むか?」と黒田。
源蔵は首を横に振った。
「飛ばないのは分かってる」
一歩、構える。
「でもな」
ゆっくり、息を吸う。
「やめる指示は、まだ出てない」
振り抜いた。
ドライバーは高くはないが、
フェアウェイの中央を捉えた。
次の2打目も慎重に刻む。
グリーン手前まで運ぶ。
少し距離が残る。
そしてアプローチ。
ボールをそっと打つと、カップイン。
エイジシュート200回目。
源蔵は、空を見上げた。
腕は重く、腰は正直だ。
それでも、胸の奥は静かだった。
その瞬間、
黒田が駆け寄ってきた。
「源蔵さん、おめでとう!」
笑顔の黒田と、源蔵は手を合わせ、
しっかりハイタッチした。
「いやー、200回か……
やるもんだな、源蔵さん」
黒田は笑いながら言った。
「お前も、一緒に刻んできたんだぞ」
源蔵も笑って応える。
二人の笑い声が、夏の朝の空気に溶けた。
「明日も、来れるな」
ゴル先生が、足元で言った。
「ええ。“動くうちは”じゃありません」
「ほう」
「やりたいと思ううちは、です」
源蔵は、ゆっくり歩き出した。
飛ばなくなった分、
一歩一歩が、前より確かだった。
夏の朝は、また暑くなっていく。
だが源蔵は、まだまだゴルフの途中だった。