小学生の頃から、野球しかなかった。
甲子園に出るため、
出場実績のある高校へ進み、寮に入った。

きつかったが、迷いはなかった。

3年の夏。
松井 拓也は、甲子園出場権を獲得した。

だが、校内で問題が起き、
出場を辞退することになった。
校長の金の話だとか、いじめだとか、
真偽の分からない噂だけが残った。
野球部には、何の関係もなかった。

それでも、大会はなかった。

そこから先の記憶は、薄い。

大学へ進み、
社会人になり、
気力のない日々を過ごしていた。

ある日、会社の同僚に声をかけられた。

「ゴルフ、行かない?」

気乗りはしなかったが、
断る理由も、見つからなかった。

初めてのゴルフ場。
広い空。
静かな芝生。

拓也は、ティーショットに立ち、
打ち下ろしの見通しよいコースを一望し、
ドライバーを構える。

——振った。

その瞬間だった。

バットを振る感覚が、腕に戻ってきた。

重さ。
遠心力。
最後に、ヘッドが走る感じ。

「……楽しいな」

思わず、拓也の口から声が漏れた。

ミスしても、笑った。
同僚たちと、青空の下で騒いだ。

高校時代。
寮のグラウンド。
土の匂い。

忘れたと思っていた記憶が、
一気に戻ってきた。

次のホール。
拓也はフェアウェイの先を見て、
素振りをした。

そのとき、ボールがしゃべった。
「そうや」

ゴルフボールが、
センター方向を指している。

「打とうとするな」
「飛ばす方向を、決めるだけや」

構えると、もう一つ白い球が、
足元にあった気がした。
野球のボールのように。

「あそこに向かって、飛ばす感じでええ」
「バットも、クラブも、最後は一緒や」

言葉より先に、体が動いた。

振り出しは静かで、
最後にヘッドが走る。

球は、真っ直ぐフェアウェイを進んだ。

ラウンドが終わり、帰りの車の中。
同僚が何気なく言った。

「なあ、お前……野球、やってたんだろ」

少し間があった。

「高校まで」

「やっぱりな。
 俺、草野球チーム入ってるんだけどさ」

信号で止まり、こちらを見て笑った。

「お前も、入らない?」

胸の奥で、何かが静かに動いた。

「……やってみるか」

夜、押し入れからグローブを出した。

ボールはなかった。
でも、投げる方向は、はっきり見えていた。

青空の下、
センター方向へ。