川口恒一、65歳。
年は食ったが、体はまだ現役だ。

朝5時。
工場のシャッターを上げると、
鉄と油の匂いが一気に押し寄せる。
胸いっぱいに吸い込んでも、
むせることはない。
この匂いで、ここまで生きてきた。

三トンプレス機の前に立つ。
鋼板を置き、位置を確認する。
レバーを引く腕には、無駄な力がない。

――ドン。

一発で決まる。
寸分の狂いもない。

「まだ大丈夫だな」

誰に言うでもなく、そう呟いた。

親父が倒れる直前まで使っていた機械だ。
新型じゃない。
だが、癖も鳴きも、全部体に入っている。
図面より、音のほうが正確だ。

代行会社の営業が来た日のことを思い出す。

「正直、この規模だと評価は難しいですね」

若い男は、笑いながら言った。
敬語だが、芯がない。

「機械も古いですし」

恒一は、それ以上話をしなかった。
腹が立ったからじゃない。
話が噛み合わないと分かったからだ。

機械は古くても、正確な仕事をする。
それが分からない相手と、長話はしない。

工場の隅で、腕を組む。

「……だったらよ」

ふと、言葉が出た。

「俺が全部片付けて、
 土地だけ売ったほうが早えな」

思いつきだった。
だが、その言葉は、胸の奥に残った。

午後、車でゴルフ場へ向かう。
千葉の丘陵にある、派手さのないコース。
クラブハウスも古いが、無駄がない。

スタートホール。
曇天。風は弱い。

ティーにボールを置いた。

「久しぶりじゃねえか」

足元から声がした。

「うるせえな」

ゴル先生だった。
白くて、小さくて、相変わらず偉そうだ。

「今日は相談だ」

「最初から愚痴か?」

恒一はドライバーを構える。
体はぶれない。
だが、ほんの少し、力が入った。

――キン。

高い音。
ボールは出球から右を向き、
そのまま曲がった。

「おいおい」

ゴル先生が転がりながら言う。

「力はあるのに、芯外してどうすんだ」

「うるせえ」

「飛ばそうとすんな。
 お前の仕事、そんなやり方だったか?」

恒一は、黙った。

「工場をな、畳もうと思ってる」

「ほう」

「継ぐ奴がいねえ。
 紹介されたのは、値段の話ばっかりだ」

「で?」

「だったら俺が終わらせる」

ゴル先生は、少し間を置いた。

「“終わらせる”ってのはな」

「……」

「ちゃんと区切るって意味だぞ」

セカンドショット。
フェアウェイウッド。

余計なことを考えず、振った。

――乾いた音。
低く、強く、真っ直ぐ。

「ほらよ」

ゴル先生が言う。

「芯に当てりゃ、
 無理に飛ばさなくても前に行く」

恒一は、芝生に止まったボールを見た。

親父の言葉を思い出す。
――機械は正直だ。
人間の方がごまかす。

「俺はな」

恒一は言った。

「高く売りてえわけじゃねえ」

「分かってる」

「でも、残すってのも、重てえんだ」

ゴル先生は、笑ったようだった。

「十八ホールある」

「……ああ」

「答え出すには、まだ早え」

その後も、恒一は打ち続けた。

刻むホールもあれば、
攻めて失敗するホールもあった。
だが、不思議と腹は立たなかった。

ミスをしても、
次の一打をどうするかだけを
考えればよかった。

足元で、ゴル先生が言った。

「片付けるってのはな、逃げじゃねえ」

恒一は、歩きながら聞いていた。

「使い切るってことだ」
「役目を終わらせるってのは、
 雑にやるもんじゃねえ」

フェアウェイの真ん中で、
恒一は立ち止まった。

シャッターの音。
油の匂い。
親父の背中。
自分の腕。

全部、浮かんだ。

「……俺、守ることばっか考えてたな」

ゴル先生は、何も言わない。

「守った分、動いてなかった」

恒一は、クラブを握り直した。

「工場、ちゃんと片付けるわ」
「機械も、道具も、全部な」

「それで?」

「土地を売る」

ゴル先生が、少しだけ前に転がった。

「ほう」

「その金で、次をやる」

「次?」

恒一は、空を見上げた。

「日本中のゴルフ場を回る」
「北海道から九州までな」

少し間を置いて、続けた。

「仕事に使わなかった時間を、
 今度は全部、自分で使う」

ゴル先生が言った。

「いいじゃねえか」

「……ああ」

「それが、お前の第2ラウンドだ」

恒一は、ボールを打った。
力まず、芯で。

ボールは、静かに前へ進んでいった。

終わらせる。
そして、始める。

恒一は、その日のラウンドで、
自分の次の人生のティーショットを打った。